チェック=久保山孝
入力者=佐田與一郎

昭和43年 3月24日 朝

 真の信心をさしてもらうこと、。まことの真のおかげを頂きたいと思う。真の信心をさして頂いて、まことのおかげ真のおかげというのは、神様が氏子一人一人の上に願いをかけてくださる、またくださろうとしておるおかげを、真のおかげと申します。それでその、真のおかげを頂きたい。本当のおかげを頂きたいならば、どうしてもやはり本当の信心に方向を変え、目指しをそこに置かなければいけない。本当のおかげを頂かなければ。
 そこでその本当のおかげ、それに本当の信心。そこに本当の修行というのがまたどうでも必要になってくる。ね、そうでしょう。本当のおかげ。真のおかげと。真の信心と仰る。その真の信心に、まことの真のおかげが表れない筈がない。真のおかげとは私どもが願う、ちっぽけなおかげじゃない。神様がなさろうとする、それこそ無限大に広がっていくところのおかげである。
 自分だけじゃない、子供に孫にもその徳が伝わっていくようなおかげである。皆さん、そういうおかげをですね、頂けるのがお道の信心です。ですから、そういう信心を皆さんが目指す。そういう信心を頂きたいという願いに方向を向けなければいけない。
 そうがなかなかできるという、できるとは思われません。けど、そこに方向を向けて、そちらのほうに、一歩一歩それに近づいていく。信心をしなくてはいけんのですよ。
 それには、どうでも信心に修行は付きものとおっしゃるですから、まぁ真の信心には真の修行があるということが言えますけどね。真の修行と。本当の修行があるのです。そこで今日はその本当のおかげを頂くためにも、本当の信心をさして頂くために、今日その本当の修行というところに、焦点を置いてお話を聞いてもらいたいと思う。
 本当の修行とはどういう修行だろう。これは合楽に御神縁を頂いておる方だけしか分からないかもしれません。皆さんなら分かるだろうと思う。ですから、私が申しますこと皆さんの心で、それはこういうことであろうと思うてみてください。
 今朝、私ご神前に出ましたら、ただいまのことを頂くんですけどね、あのピースというタバコがあるでしょう。あの缶入りがありますよね。あの缶入りは上蓋があって、中にもう一つ薄い、いわゆる缶詰のようになっています。それをいきれいにこう取れるようになっとる。ですから中身非常に香りの良い、缶入りのタバコは非常に香りが第一と言われておりますがね。
 そのきれいに取れるはずのですね、その言うならその蓋が、それがちょっとでも風でも突つけば、すぐ破れるようにいかないかん。それをこう、真中から何でかで突きほがしたというように破ってある。手を入れれば中のタバコが取れんことはない。取れんことはない。けれども、いきなり手を突っ込むと、手が怪我するといったような感じなんです。皮を無理に破ったといったような感じなんです。そういうお知らせを頂きました。
 次にはですね、おすし屋に参りますとにぎりを作る。おすし屋に参りますと、必ず海苔巻というのを作ってくれます。確かに海苔巻なんです私が頂くのは、ところがその海苔巻げですね、中にいわゆる芯が入ってない。海苔巻には、必ずまぁマグロの切り身を入れてあるのが普通ですね。マグロの切り身を中に芯にして、そして、それを海苔で巻いて浅草巻きに巻いてあるんです。
 まぁ、おかげも頂きましたけれどいうですね。申しましょう。まずそのピースの缶のこと、皆さんはどういう風に感じられたでしょうか?まぁ、タバコを飲む時には、まぁ、一服するで時すよね。色々仕事をいたします。そして、その合間にちょっと一服しょうか、と言う一服をいたしますものでございます。
 ところがその一服に、危険を感じる。心にひっかるものがある。一生懸命働いた。一生懸命苦労した。言うなら一生懸命修行をした。必ず神様は一服というのがあるんですよ。人間生身を持っとりますから、そうとばかりは続かん。ですからそこんところにね、合間合間にちゃんと一服さしてくださる。それはまた、次の修行が新たな心で行ける。さらな心で行ける。
 仕事でもそうでしょうね、きつい仕事をしとっても、ちょっと一服しようかというて、お茶を飲んだりタバコを飲んだりしよきますと、また新たな力が蘇ってくる。そしてまた、新たな仕事が次からできるようなものなんです。ところがです、その修行がです、その一服がです、どうも自分の心に引っ掛かって、一服しよることがご無礼になっていくのじゃなかろうかと、何か心に危険を感じるような一服があります。
 わがまま勝手な修行で、わがまま勝手な一服じゃいけないんです。ずるけた一服じゃいけないんです。同時に、その仕事そのものをです。修行そのものをです。しだごだにしながら、一服してごらんなさい。その一服は決してすきっとした、味わいのある一服ではありません。
 例えて言うならば、なら皆で大祭を前にしてたくさんの人達が教会で、色んな御用をなさるでしょう。草取りなら草取りがあるでしょう。それで自分がぶらぶらしたら、それで一服の時だけ、お茶を飲んだり、タバコ飲んだりしよってから、良い基本が頂けるはずがないでしょうが。そうでしょう。
 一生懸命に御用さしてもらう。一生懸命に草取りをさしてもらう。そして、さぁ一服ですよ、と言われた時に頂くお茶であるならば、タバコであるならば、それはもう何とも言えんおいしいお茶であり、おいしいタバコであろうと私は思う。そういう例えば修行。修行の後にはですね、必ずすきっとした一服ができるものであるならば、あなたの今の修行は本当な修行だと言えるのです。ね、分かりましたでしょうか。
 一生懸命仕事をする、一生懸命仕事をした後の、一服の楽しさありがたさ、またタバコのおいしさ。けれども、自分が陰日なたばっかりにして、しだごだにしといてから、さぁ皆が一服する時、自分も一服しようと言ったようなことでですね、すきっとした、気分の良い、ありがたい、一服ができるはずがありません。自分のはまだ本当の修行じゃなかったんだなぁ、ということを分からないけません。
 いわゆるその修行に取り組み方。その仕事に取り組み方が、まだどこにかお粗末ご無礼なところがあるということを、分からないけません。本当の修行とはそういう修行。あとの一服が素晴らしい。そういう私は、日々そういう修行に一つ、せっかく修行さしてもらうならば取り組まなければいけません。後味の悪いのであるならば、まだ自分のしておる修行は、まことの真の修行ではないということを悟られねばならん。
 次に海苔巻のお寿司の海苔巻のことを、皆さんどういう風に感じられたでしょう。「色は黒うても、浅草海苔は米の飯(まんま)の肌は巻く」と言うておられます。色は黒うても。浅草海苔は黒い。黒いということはどういうことなんだろうか?どういうことかと言うとですね、黒いということは苦労ということ。苦労をするということ。という信心では修行と。
 ところが、そのせっかくの苦労ができておる。せっかくの浅草海苔にご飯が、そのご飯がいわば巻いてあるのでございますけれども、肝心要の中にマグロの切り身が入ってない。マグロというのをもじって字で書いてみますとね、真の黒と書いちゃる。真ということ。真。マグロ。それは黒と。真(しん)の黒と。いわゆる本当の修行という言葉。
 そのいわば、私はそのことを頂いた時にある人のことをお願いしておったんです。なかなか人物も立派ですし信心もできます。けれども、最近のこうした合楽的信心とでも申しましょうか。言うならば、この燃えるような朝参り的信心ではない。それでもやはり、おかげは受けておる。それがその浅草海苔に巻いてあるご飯であって、中にマグロの芯の入ってないお寿司を食べているようなものじゃと頂いている。
 これはどういうことになりますでしょうかね。中にマグロが入っておってこそ、これに醤油をつけますから、何にもいらんおいしいんです。一口一口がおいしい。ところが海苔だけで巻いてあるそのお寿司というのは、およそ寿司とはこう思われない。そこに何の(????)ところにおさえがいるでしょう。
 お漬物などもおさえなん、おさえが必ず必要でしょう。中にマグロが入ってないですから。ここのところがです。言わばご無礼お粗末になっていくわけですね。成る程そういうなかなか人物も良いし、信心も出来とりますから、おかげを頂いておられる。けれどもままにはなっておるという意味なんです。ね、ままにはなっておる。
 この辺が皆さん、合楽の御理解を頂きませんと皆さん分かりませんもんね。この辺分からないなら、また(????)の人に聞いてくださいよ。あれはどういう意味ですかっち。分かるところまで納得せないけません。そのようなことをお願いさせてもらいよったら、今その人は商売が繁盛しております。仕事も順調に行きよります。それはいわゆるままになっておるということです。
 ままになっておるけれども真のマグロ、真の修行が伴うていないから、おさえを他に求めなければならない。副食を他に求めなければならない。それだけはこれはもう、神様の借金になっているようなもの。そこへんの意味はわかるでしょうか?
マグロ。いわゆる本当の真の苦労。真の修行。真の修行が中にポンと、そのマグロの芯のようなものが通っておる。それであって、海苔、浅草海苔で巻いてあるというふうであったら、これは本当のおかげなんだ。これは本当のマグロ、本当の修行に伴うてままになっておるおかげなんだ。
 ね、真の修行。先ほど申しましたような修行ですよね。一生懸命修行さして頂いておるその後味に、なんとはなしに信心が緩んでおると、おかげだけはどんどん頂いておる時には、心の中に一服しましても気分が良くないですよね。信心もできんのにおかげだけ頂いて、いつお気づき頂くじゃろうかといったような気持ちが、必ず伴うです。より危険を伴う、危険を感じる。
 ちょうどピースのそれを、蓋を破って一服しているようなものなんです。ところが私なりにです。一生懸命な信心ができておる。信心ができておる時に、頂くおかげは本当に神様のおかげにの間違いなさに恐れ入ってしまう。ありがたいことじゃと。恐れ入ってしまうという、その恐れ入った生活、ありがたいというおかげがです、その後味として頂けるのです。それが真の修行と私は思わして頂いております。
 今なんべんも申しましたごと、皆さん分かられたでしょうか?本当の修行というのはそういう修行。これはね、その修行が間違うておりましても、例えばあの次に真葛ということを頂いた。真葛というのは、あの葛の葉の葛ですね。あの葛湯を作る葛ですね。真葛くる(????)と頂くんですよ。これでもおかげは受けられる。
 これはね、例えて言うなら本当の修行ではないという意味です。言うなら後味の悪い修行です。言わばしだごだの修行です。しだごだの修行でもやはり神様への心を向けて、修行するのでございますから、神様一歩でも無駄にはさせんと仰るのですから、おかげの方には表れてきますよね。おかげ頂きようけん、まちがえないということはないです。だから。それが本当の修行ではなくても、いわゆる真葛であっても、葛のような修行であっても、おかげだけは伴う。
 今日、私が言うておるのは、そういうおかげではなくて本当のおかげ。まこと真のおかげ。神様が下さろうとしているおかげ。子供にも孫にも伝わっていくおかげ。そのことを申したんですね。ですから、おかげ頂いておるけんというて安心はできんとですよ。自分のしだごだの信心で頂いておるおかげではつまらんですね。
 せっかくおかげを頂くなら、ね、マグロの中に入ってない、マグロの芯が入ってない、ただ海苔で巻いてあるというだけの、いわゆるお寿司ではつまらんでしょう。せっかくお寿司を頂くなら、中にマグロの大きいとがボンと入って、それを紫に醤油を、その紫をつけて頂く。これが一番おいしい頂き方。これが、これが本当のおかげなんだ。
 それにはどうでも、同じ一服でも同じ楽をさして頂くでも、ね、きれいに缶が切ってある。そして、その一服ができる。そのタバコが飲めれるようなですね、あたしは修行でなければいけん。いわゆる後味が本当にすきっとした。一生懸命働いたあとの一服がおいしいような、おかげを頂かなければいけん。そういう修行じゃなからなければいけない。少しややこしくなってきましたかね?
 どうぞそういう皆さんがですね、真の信心、そこに真のおかげ。なら真の信心には絶対、真の修行が伴うということ。真の修行というのは、どういう修行か?お参りさえすれば良いじゃない。水をかぶったり、物断ちをするだけが修行じゃない。
それがいけないと言うのじゃないないです。ね、本当の修行というのは、その後に後味のよい味わいのある。 今日も結構な修行にお使い回しを頂いてありがとうございました。とお礼の言えれるような修行。
 今月号の新聞をご覧になったでしょうか?私の伝記の、あのーはじめて私が金光様からお書き下げを頂いた時分のことが書いてある。あの中にですね、私がもう1日中、商売には自信があった。ところが本当言うたら、その時分闇の品を扱っておりましたら、タオル一筋が自分の力で売れないということを、もう分からさせられた。
 博多の町をもうそれこそもう雪の中をです、破れ靴履いて、もうそれこそその当時は自転車もなかった。まぁ歩いてですね、まぁ2,3ダースのタオルを持って、商いを商っておったんですよ。そのタオル一筋がよう売らなかったんですから。もうその頃は商売がいよいよいけなくなった頃でした。
 1日中、それこそ福博の町を歩かせて頂いて、帰らせて頂く頃には、もう体もヘトヘト。ヘトヘトだけれどもご神前に向わして頂いて、お礼を申さして頂いておると、今日も本当にありがたい修行をさして頂いてありがたい、本当に感涙にむせておりました。
 ね、1日のそのもう障子一重がままならぬ人の身であると分かる、今までは商売を自分の腕でしようと思いよった。けれども、神様のおかげを頂かなければ、実を言うと一筋のタオルすらが売れんのだ、ということが分からして頂くところから私の信心の芽が開けてきておる。
 1日中も回ったばってん、神様いっちょん神様おかげを下さらんかった。あーあーと言うて、もう神様には拝むもんかといったようなものじゃなくてです。その1日の苦労がです。真実ありがたかった。その1日の苦労がです、素晴らしいことになってきた。いわゆる真実の苦労、真実の修行として神様が受けてくださったわけなんです。そういうところが、今度の新聞には出ております。ご覧になったと思いますけれどもね。
 だから、本当の修行という後にはです。そういうすきっとした味わいと同時に、その修行のことをあのお醤油をもってくださるんですね。お醤油。お醤油は真っ黒しとうでしょう。ね、いわゆる真っ黒な修行をさして頂いておるけれども。その修行がです、安心が伴う。
 あのここでは紫の色を安心と言う。お醤油のことを紫と読む。(????)。ね、お寿司屋なんかでお醤油下さいなんか言うたら、ああこの人素人だなと思われる。紫ください。ああこの人は通だなぁと思うて、握る人がそう機嫌よう握りますよね。皆さん知っちゃるですか?お醤油のことを紫と読む。
 ね、ですから。例えばお醤油のような修行。ね、どんなに真っ黒い修行をさして頂きよりましてもです、その後に生まれてくる安心というものが、その安心が伴うておるならば、今からどんしておる修行は、本当の修行ですよ。真の修行ですよということができるのです。
 ああ今日は1日ヘトヘトになった。神様が1つもおかげくださらなかった。というのならばです、例えばもう本当の修行じゃなかったということです。ただ苦労に終わったということになる。苦労のように見えるけれども、それを本当の修行として神様が受け取ってくださるならば、必ず喜びがある。安心がある。ね。
 ここまで皆さん聞いて頂いたから、真の修行ということが大体お分かりになったと思うんですね。その仕組みなら絶対いわゆる真の信心ができる。その真の信心ができるところからです、まことのおかげ、真のおかげ、本当に夢にも思わなかった道が開けてくる。そういう修行を皆さん、私は求めてなさらなければいけない。
 最後にこれはもう絶対という真の修行がございますね。それはもう皆さんが頂いておられるから、ご承知だと思うんです。どうでしょう?もうこれは絶対という修行がある。これはもう絶対の修行なん。もう絶対の真の修行なん。それこそ神様がもう喜んでくださる修行なん。本当に分かっとるでしょう。
 起きてくる事柄、起きてくる難儀を恐れないという修行なわけです。これはもう絶対の修行なん。ね、ここで私がいつも言う、成り行きを尊べということは、成り行きの中には難儀を感じることもある。痛い思いをすることもある。けれども、その痛いとか難儀を感ずる、その難儀をです。恐れず、逃げず、それを神愛として、それを神様の本当の愛情の表れとして、それを合掌して元気な心で受けていく。
 または、これはまだ自分の信心が足りんからと、それから一段と信心を進めていく。そこから生まれてくるところのおかげ。そこから展開されてくるところのおかげ。それを本当のおかげと言い、それを本当の修行ということになるのでございます。これはもう絶対的な真の修行でございますね。成り行きが自然が求める修行だと。言うなら、神様が求め給う修行なのです。
 以前に申しましたのは、信心に修行は付きものと言うから一生懸命修行せな、と言うてする修行がです。ね、本当の修行の方向、本当のところに方向を向けての修行じゃなからなければならないということを説きました
 一番最後に申しました。申しておりますことは、これはもう常日頃、私がこれはもう合楽の信心の、まぁ独壇場と言うわけでもないでしょうけれども。そうですね、合楽で一番大事にしておるという修行なんです。これはもう真実、神様の喜んでくださる真の修行になるのです。
 今日はそういう真の修行、ね。真の信心には真の修行が必ずつきもの。ここには真のおかげが現れないはずがないという、信心の一番大事なところを頂いたわけなんですけれども、今日の御理解はね、皆さんじゃなからんと分からん。常日頃、頂きつけている人じゃなからな分からない。ね。醤油が紫とか、安心とか、浅草海苔が修行であるとか。ご飯がままになるとか。まぁそういう例え話を、ここでいう独特な表現方なんですけれども。ね、その独特な表現法をただ神様がくださるわけなんですけれども。ここで頂きつけた人じゃなければ、皆さん分からない。言うならば、皆さんのための御理解。
 そこんところをどうぞ1つ大事にして、本当の今日はまことの修行、真の修行に取り組んでです。おかげを頂いて行きたいと思いますね。どうぞ。